法座の言葉(201〜300)
目次
- No.221 安方 哲爾師 平成24(2012)05/14-15
- No.220 若林 真人師 平成24(2012)03/23-24
- No.219 舟川 宏顕師 平成24(2012)01/20-21
- No.218 紫藤 常昭師 平成23(2011)11/17-18
- No.217 深川 倫雄和上 平成23(2011)09/28-29
- No.216 和田 俊昭師 平成23(2011)08/26-27
- No.215 藤本 唯信師 平成23(2011)06/27
- No.214 中島 昭念師 平成23(2011)05/27-28
- No.213 天岸 浄圓師 平成23(2011)03/04-05
- No.212 徳永 一道和上 平成23(2011)01/26-27
- No.211 松月 博宣師 平成22(2010)11/5-6
- No.210 深川 倫雄和上 平成22(2010)09/28-29
- No.209 加藤 一英師 平成22(2010)08/24-25
- No.208 松岡 洋之師 平成22(2010)06/21
- No.207 内田 正祥師 平成22(2010)05/28-29
- No.206 福間 義朝師 平成22(2010)03/12-13
- No.205 溪 宏道師 平成22(2010)01/27-29
- No.204 紫藤 常昭師 平成21(2009)11/16-17
- No.203 深川 倫雄師 平成21(2009)09/26-27
- No.202 松林 行円師 平成21(2009)08/27-28
- No.201 宮崎 幸枝先生 平成21(2009)06/22
内容
《第221回 安方哲爾師 平成24(2012)年5月14・15日》
【悪人正機】
私たちのご法義は「悪人正機(あくにんしょうき)」といいます。
率直にいえば「阿弥陀様のお目当ては悪人」という意味です。
こう言うと「あんな悪い人でも救われるというのか」と言う人がいます。
それは誤解です。
悪人とは、言ってみれば人間の本性みたいなものです。
私の本性は悲しいかな煩悩まみれ。
必ずといっていいほど苦しみのこの世界を、
苦悩して生き、苦悩して死んでいきます。
だから生まれ変わり死に変わり、
迷いの世界を経巡ってきました。
阿弥陀様は我々の悲しみを見た時に「ほおってはおけない」とおっしゃいました。
しかも我々というものが罪深き悪人であり、
自分でそれをどうすることもできない者とお見抜きになった仏様は、
「こうしろ、ああしろ」とは言わず、
「私があなた(悪人)を救える仏となるよ」とおっしゃいました。
そして五劫の間思惟し、永劫の間修行して
「あなたのせねばならないことを私の手元でしたよ」とおっしゃいました。
そのことを今お念仏を通して聞いていくのが、
悪人が悪人のまま救われていくという、
我々浄土真宗の「悪人正機(悪人こそが仏のお目当て)」というみ教えでした。
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
煩悩具足のわれらは、
いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、
あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、
悪人成仏のためなれば、
他力をたのみたてまつる悪人、
もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、
仰せ候ひき。(『歎異抄』)
(あらゆる煩悩を身にそなえているわたしどもは、
どのような修行によっても迷いの世界をのがれることはできません。
阿弥陀佛は、それをあわれに思われて本願をおこされたのであり、
そのおこころはわたしどものような悪人を救いとって仏にするためなのです。
ですから、この本願のはたらきにおまかせする悪人こそ、
まさに浄土に往生させていただく因を持つものなのです。
それで、善人でさえも往生するのだから、
まして悪人はいうまでもないと、聖人は仰せになりました。
(『歎異抄』第三章 現代語訳)
《第220回 若林 真人師 平成24(2012)年3月23・24日》
【捨てない】
お念仏は阿弥陀様のこんなお喚び声です。
「安心なさい。そのままでいいよ。一人じゃないよ。あなたを捨てない如来だよ。」
@「安心なさい」…
仏道にそむきつづける私を待ちつづけ、かかりつづける仏。
決して裁くことのない慈悲の持ち主です。
A「そのままでいいよ」…
私の全人格が救いの目当てでした。
隠し事はいりません。
願いも愚痴も聞いてくださる仏です。
B「一人じゃないよ」…
たった一人で死んでいく私に、ただ一人寄り添ってくださる仏。
支えの多い日常生活。
でも、ふと孤独の思いが心をふさぐ時、お念仏申すと良いですよ。
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
舎利弗、
なんぢが意においていかん、
かの仏をなんのゆゑぞ阿弥陀と号する。
舎利弗、
かの仏の光明無量にして、
十方の国を照らすに障碍するところなし。
このゆゑに号して阿弥陀とす。
また舎利弗、
かの仏の寿命およびその人民〔の寿命〕も無量無辺阿僧祇劫なり。
ゆゑに阿弥陀と名づく。
(仏説阿弥陀経)
《第219回 舟川 宏顕師 平成24(2012)年1月20・21日》
【捨てない】
阿弥陀様のことを、
親鸞聖人は「摂取・不捨(せつしゆ ふしや)」と教えて下さいました。
如来様は私を摂(おさ)め取って捨てないというのです。
一流の料理人は食材を捨てません。
「ゴミを絶対に出さない」ように心掛けます。
野菜のくずも皮もヘタも種も、
全て無駄せず、
料理に活かします。
阿弥陀様も一流の料理人。
私という食材の全てを無駄にせず、
仏陀(ぶつだ)(目覚めた者)に仕上げるとはたらいてくださっています。
苦悩も煩悩も全て引き受け、
「南無(なも)/阿弥(あみ)陀仏(だぶつ)(マカセヨ/カナラズスクウ)」
と喚んでくださっているのです。
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
『弟子四禅(でししぜん)の線(いとすじ)の端に、
たまたま南浮人身(なんぶにんじん)の針を貫き、
曠海(こうかい)の浪(なみ)の上に、
まれに西土仏教の査(うきぎ)に遇へり。
ここに祖師聖人の化導(けどう)によりて、
法蔵因位(ほうぞんいんに)の本誓を聴く、
歓喜胸に満ち渇仰(かつごう)肝に銘ず。
しかればすなはち報じても報ずべきは大悲の仏恩、
謝しても謝すべきは師長の遺徳なり。』
《第218回 紫藤 常昭師 平成23(2011)年11月17・18日》
【お仏壇】
我々の先輩は家に仏壇を遺して行ってくださいました。
それは「仏様の話を聞いていけ」ということです。
仏様の話を大切にする先輩方でした。
家庭というのは裸になって大いばりで歩ける所だが、
その中で膝を合わせ、手を合わし、
賢い頭を下げて、仏様のお慈悲を聞く場所を設けてくださった。
人間の仕合わせとは衣食住足りることは勿論、
お金もないよりはあったほうが良いだろうが、
それよりも南無阿弥陀仏と届いた仏様に「南無阿弥陀仏」とおまかせして、
浄土参りさせてもらうという人生を生きるがええよと、
先に行かれたお方々が、後に行く者を導いてくださっているのです。
「ようこそでございました」と勤めさせていただくご法事が、
永代経法要の肝要であります。
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、
仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、
「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。
《第217回 深川 倫雄和上 平成23(2011)年9月28・29日》
【私の身の上】
昔、大江和上がこうおっしゃっていた。
「仏願(ぶつがん)の生起本末(しようきほんまつ)
(阿弥陀様の一切の物語)を聴いては忘れ、聞いては忘れする。
その内ふと『仏願の生起本末は、私の身の上と似ているぞ』と思うようになる。
これが大切です。
仏願の生起本末は
私を含んだ事と思える身になったのをご信心という。
……まもなくこの世をさらねばならぬ。
何の憂いもない。
ここは障害のある国だ。
今度は、この世の理屈は一切通用しない、
明るい智慧の国、悟りの世界に生まれる。
何の心配もない」と。
念仏が出る老境の身は仕合わせです。
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
(教行信証「信巻」 註釈版, p.251)
《第216回 和田 俊昭師 平成23(2011)年8月26・27日》
【願わぬ故】
私どもの阿弥陀様という仏様は、
私どもを、その身のまま、
縁起の道理の世界であるお浄土に生まれさせ仏にしたいと願われ、
私の所にお出ましくださっているお方です。
法然上人最晩年の作としてこんな歌があります。
「極楽は日に日に近くなりにけり あわれうれしき老の暮かな」
こんな境地になりた……くはない私がいます。
凡夫の私は「娑婆好きの浄土嫌い」。
何故、私はお浄土に参りたいと願わないのでしょうか?
私たちは、各々、好きな食べ物があります。
しかし、それは必ず一度は食べた事があるもの。
一度も食べたことのない物を「好きな物」と、誰が想像できるでしょう?
お浄土は悟りの世界です。
無苦無楽、苦もなく楽もない世界です。
それはこの私が決して経験したことのない世界。
頭で考えられない世界(お浄土)に生まれたいと願わないのは、当然なのです。
しかし、願わぬ私だから、
阿弥陀様の方が「そのような者を救いたい」と願われ、
今、仏の姿を捨て声の仏となって、
私の口を借り、 声となり、「ナマンダブツ」とあらわれて下さっているのです。
どうぞ、お念仏申させていただきましょう。
(おわり)
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
弥陀の名号となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり
誓願不思議をうたがひて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしくすぐとぞときたまふ
(浄土和讃 註釈版, p.555)
《第215回 藤本 唯信師 平成23(2011)年6月27日》
【浜までは】
「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」(滝瓢水(たき ひょうすい))
【海女(あま)】海中にもぐってアワビ・海藻(かいそう)などをとる仕事をしている女の人。
【蓑(みの)】カヤやスゲなどで編(あ)んで作り、肩から背中にかける、むかしの雨具。
【時雨(しぐれ)】冬の初めごろ、さっと降(ふ)ったり、やんだりする雨。
浜へ仕事に向かう女性達。
その道中は雨模様。
皆、一様に雨具を着ている。
雨に濡れないためだ。
それを見て笑う人がいる。
「どうせ海に入れば濡れるのに、なぜ蓑を着るのだ」と。
それは大きな勘違いだ。
今は濡れる場所ではない。
大切な仕事が待っている。
それまでは濡れない。
海水浴に行く子ども達とは違うのだ。
……
今、念仏者はお浄土への道を歩む。
いのちの行く末、それはお浄土の浜。
そこは仕事場だ。
仏になって人びとを救う仕事の始まりだ。
それまで一日ゝゝ、精進して生きる。
それを見て笑う人がいる。
「どうせ最後は仏になるんだ。なぜ今、真面目に生きるのか。」
それは大きな勘違いだ。
私の最後は地獄行きだった。
欲望、怒り、妬み……煩悩の心、地獄行きの心が止めどなく湧き起こる。
お浄土で仏になるはずもない私。
そんな私を仏は必ず救う(往生・成仏)という。
救いようのない私のために、法蔵菩薩(阿弥陀仏)は、
果てしなく悩み、終わりのない労苦を惜しまなかった。
その救いの証拠が、南無阿弥陀仏。
お念仏を称える時、最後まで見放すことのない仏のお慈悲に触れる。
悪人の自覚。
これ以上、罪を重ねる事を肯定してどうする!
「欲や怒りや愚痴が出る 出る度毎にみ仏の
慈悲の心に立ち返り 力の限り生きて行く
(藤秀すい[王+翠])
(おわり)
(今年3月の「法座のことば」も宜しければ)
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
源空光明はなたしめ
門徒につねにみせしめき
賢哲(げんてつ)・愚夫(ぐぶ)もえらばれず
豪貴・鄙賤(ひせん)もへだてなし
(『高僧和讃』 註釈版聖典 p. 597)
《第214回 中島 昭念師 平成23(2011)年5月27〜28日》
【人間の喜び】
今日の福祉の進んだ社会において、
「生活苦」はずいぶん改善されてきた。
@貧困、A失業、B不潔(病気)、C怠惰(窮乏)、D無知(無能力)は、
昔より格段に減った。
ではもう仏教(仏法)は必要ないのだろうか?
仏法は、@〜Dの苦しみの解決が目的ではない。
いついかなる時に生まれようとも存在する「人間苦」の解決が目的である。
人間苦とは、「四苦八苦」である。
これらは人智を尽くしても片が付かない問題である。
だから苦しみ悩み、のたうち回って終わって行くしかない。
人間に生まれた以上、仏法には出遇わないとならない。
「あなた方が見て経験している人智の世界とは違う、素晴らしい世界がありますよ」
と残してくださったお経様の、仏智の話を聞かなければならない。
それはお念仏の話であり、ご信心の話である。
真実のお慈悲の話である。
仏智をいただく時、
決して解決の見えなかった悩みが、悩みとならなくなる世界がある。
喜びの世界である。
その事を全人生をかけて示してくださったのが親鸞聖人である。
今ここに苦しむ私の為にご出世くださった聖人。
ようこそご誕生くださいました!
「人間に生まれたことの有り難さ
仏法に遇えたことのかたじけなさ
今日まで生かされていることの勿体なさ」
(金子)大栄96歳(最晩年の色紙より)
(おわり)
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
如来、世に興出したまふゆゑは、
ただ弥陀の本願海を説かんとなり。
五濁悪時の群生海、
如来如実の言を信ずべし。
(『教行信証』行巻 註釈版聖典 p. 203)
《第213回 天岸 浄圓師 平成23(2011)年3月4〜5日》
【造悪無慚】
阿弥陀仏の救いは、善悪関係なく、平等に到り届きます。
しかしそのご法義をねじ曲げて、
「どんな悪いことをしても構わないのが浄土真宗だ」
と言う方がおられます。
造悪無慚(ぞうあくむざん。悪を造れども慚愧なし)と呼ばれる方々です。
そのような考え方に対して、
親鸞聖人はお手紙の中で、厳しく誡められておられます。
「聖典を見ることもなく、その教えの内容を知らないみなさんのような人びとが、
『往生のさまたげとなるものは何もない』ということだけを聞いて、
誤って理解(悪を造っても構わない)することが多くありました。
今もきっとそうであろうと思います。……
そもそもみなさんは、
かつては阿弥陀仏の本願も知らず、
念仏することもありませんでした。
しかし釈尊と阿弥陀仏の巧みな手だてに導かれて、
今は阿弥陀仏の本願を聞き始めるようになられたのです。
以前は「無明(むみょう)の酒」というものに酔って、
自分の都合ばかりで生き、
「@むさぼり、Aいかり、B自己中」の三毒ばかりを好んでおられました。
しかし阿弥陀仏の本願を聞き始めてから、
無明の酔いも次第に醒め、
少しずつ三毒も好まないようになり、
阿弥陀仏の薬を常に好むようになっておられるのです。
ところが、
まだ酔いも醒めていないのに重ねて酒を勧め、
毒も消えていないのにさらに毒を勧めるようなことは、
実に嘆かわしいことです。
煩悩をそなえた身であるからといって、
『どうせ私は煩悩まみれの悪人よ』と、
心にまかせて、
してはならないことをし、
言ってはならないことを言い、
思ってはならないことを思い、
どのようにでも心のままにすればよいといいあっているようですが、
それは何とも心の痛むことです。……
薬があるから好きこのんで毒を飲みなさいというようなことはあってはならないと思います。
阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて、
念仏するようになってから久しい人びとは、
後に迷いの世界に生まれることを厭い、
わが身の悪を厭い捨てようとするすがたがあらわれてくるはずだと思います。
はじめて阿弥陀仏の本願を聞いて、
自らの悪い行いや悪い心を思い知り、
このようなわたしではとても往生することなどできないであろうという人にこそ、
煩悩をそなえた身であるから、
阿弥陀仏はわたしたちの心の善し悪しを問うことなく、
間違いなく浄土に迎えてくださるのだと説かれるのです。
……煩悩をそなえた身であっても、
真実の信心をいただいたからには、
どうしてかつての心のままでいられるでしょうか。」
(末灯鈔第20通、参考 現代語版『親鸞聖人御消息 恵信尼消息』(本願寺出版))
薬があるからといって毒を飲んでも良いという道理がどこにありますでしょう?
だからどうぞ薬を好んで、
毒をうけないような生き方をつとめていきましょう。
それが如来様のご縁をいただいた者の生き方です。
そしてそれが、お救いを頂いた者の生き方です。
(おわり)
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
『ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、
真実の浄信(じょうしん)、億劫(おっこう)にも獲がたし。
たまたま行信(ぎょうしん)を獲ば、遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ。
もしまたこのたび疑網(ぎもう)に覆蔽(ふへい)せられば、
かへつてまた曠劫(こうごう)を経歴(きょうりゃく)せん。
誠なるかな、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言、
超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう)、
聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ。』
(『教行信証』総序 註釈版聖典 pp. 131-132)
《第212回 徳永 一道和上 平成23(2011)年1月26〜27日(お待ち受け法要)》
【悪人正機】
親鸞聖人のご法義(み教え)の一つに「悪人正機(あくにんしようき)」(悪人こそが正(まさ)しく救いのめあて)がある。
『歎異抄(たんにしよう)』の次の言葉は有名である。
「善人なおもて往生をとぐ、いかにいわんや悪人をや」
(現代語訳…善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人は言うまでもありません)
この言葉を聞いて、
ある人は「悪人が救われると説くような本願寺を、なぜ警察は放っておくのか!」と言ったが、
そんな話ではない。
この言葉にどれほどのヨーロッパ、世界の人格者は感動し、念仏者になったことか。
世間の常識と真反対の言い方、そこに深い味わいがある。
世間は善悪の基準がなければ成り立たない。
だから私は常に、善悪の中でうごめき、相手といがみあっている。
「善(よ)し悪(あ)しの はざまに迷い」(仏教讃歌『分陀利華(ふんだりけ)』、作詞 川上清吉)続けている。
一生涯、誰であろうと否定しなければ生きていけない私。
そして悩み苦しみ命終わっていく。
そんな私を弥陀の慈悲はまるごと抱きかかえる。
「善(よ)し悪(あ)し」を超えたものが私の上に今、念仏となってはたらいている。
だが根性が変わるわけではない。
私はどこまでも悪人(あくにん)。
だからお慈悲にも背を向けて生きる。
そんなどこまでも背を向ける私を、向こうが追いかけてつかまえてくださる。
それを聖人は「救い」と言った。
「これ阿弥陀 助けたいなら 助けさしょう(させよう)
罪はようやらん(渡さぬ) 罪はよろこびのたね」
(浅原才市(あさはらさいち))
島根の妙好人、浅原才市は念仏者の心のありようを見事に詠っている。
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
《第211回 松月 博宣師 平成22(2010)年11月5〜6日 (永代経)》
【救われない者】
私どもの浄土真宗という教えにはテーマがあります。
そのテーマは親鸞聖人の人生のテーマでもありました。
それは何か。
「救われない者の救い」。
“救われる者が救われていく”のだったら分かります。
理屈が通っています。
しかし浄土真宗は「救われない者の救い」。
これはどういうことか。
私の理屈ではないのです。
阿弥陀様の理屈なのす。
救われない者を救おうとするはたらき、
これを聞いていくのが浄土真宗です。
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
聖人(親鸞)のつねの仰せには、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとへに親鸞一人がためなりけり。
されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、
たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と
(『浄土真宗聖典(注釈版)』, p. 85)
《第210回 深川 倫雄和上 平成22(2010)年9月28〜29日 (彼岸会)》
【師】
師の教えは絶対です。
それが仏教の伝統です。
私たちの師は宗祖親鸞聖人です。
親鸞聖人は仰せになりました。
仏願の生起本末を聞く
“阿弥陀様のお心を聞いた事が大切なんだ”と説かれました。
その師の言をひたすら守るのが何より肝心です。
【安心:お念仏の心】
仏教の筋立ては普通、「教行証」の三法立てです。
まず「教え」があり、その教えの通りに「行」じ、そうすると「証(しるし)」、すなわち悟りを得るのです。
ところが宗祖は、「教行信証」と四法立てを示されました。
何故そんなことをおっしゃったのか?
私たちの「教え」が、「阿弥陀様の話」だからです。
「私が〜する」という教えではありません。
他人(ひと)の話なのです。
「他人が力一杯〜した」ので、「他力」と言います。
だから私は何もしてないし、これからもしない。
雨が降って外に出ればどうなるか?
濡れます。
何もしなくても、濡れます。
手を広げたり、傘を逆さにしたりせずとも、濡れます。
びしょ濡れになり、水だらけになり、雨と一緒になります。
何故か。
余所から降ってくる雨だからです。
他力とは、余所から降ってくる仏教。
余所から降ってくる南無阿弥陀仏。
それに、私が濡れていくのが「信」。
雨の中で私が濡れるがごとく、
弥陀の他力の雨にびしょ濡れになっていくのが「信」。
何もしないのです。
でも傘をさすと濡れません。
他力の雨の中、自らの智慧を使うと濡れないのです。
「だんだんと降る他力のお助けの雨に、びしょ濡れになれば他力と一緒になる」、
というのに、〈自分は賢いと思っている人〉は、浅はかな智慧の傘をさすのです。
宗祖は一生涯「自分の智慧を使うのが一番いけない」と言い続けられたのです。
他力とは濡れること、それがそのまま信ずるということです。
【ご恩報謝】
真宗では「(私が)信じた」とは申しません。
何故なら他力にならない。
少しぶんどったことになります。
純粋他力は、何もしないのです。
では読経や御仏飯という行為は何か?
あれは“後からやる”事です。
「何もかもご用意くださった他力の親様に、
私も食べずにはおられないご飯をあげましょう、
お花をあげましょう、饅頭を……」というのは、
他力に濡れた後のご恩報謝です。
何をするのも、全て、
先手をかけた阿弥陀様の力用(はたらき)に「勿体ないことです」「尊い有り難いことです」というのが私たちの仏教生活です。
ですから真宗の仏教生活には、他宗がやるような難しいことはありません。
できる位でやっておけば良いのです。
けれど同時にご恩報謝だから、「(私は)やったぞ!」と威張ることはないのです
ご恩報謝をしながら、ご恩報謝を誇ってはならないというのが、
このご法義であります。
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、
諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えんと。
(『正信偈』 註釈版聖典p.203)
《第209回 加藤 一英師 平成22(2010)年8月24〜25日 (歓喜会)》
【夫婦】
藤沢量正先生の法話でこんなお話があった。
若くして妻をなくした夫、
そして三人の子供。
納骨の際、父は5歳の坊やにこんな話をして、
納骨をさせた。
「いいかい良くお聞き。
この骨はお母さんの骨だけど、もうただの骨なんだよ。
その意味が分かるかい?
いいかい、良く聞くのだよ。
お前のお母さんは、仏さまの国に生まれていかれたのだよ。
そこをお浄土と言うのだよ。
そのお浄土へ生まれられたお前のお母さんは仏さまに成られたのだよ。
だから、仏さまに成られたお母さんが残していったこの骨は、
もう、ただの骨なんだよ。
だけどね。
この骨は、お前を生んでくれたお母さん、
お前を今日まで育ててくれたお母さん、
そのお母さんの「いのち」を支えておったのがこの骨なんだよ。
だから、
これはただの骨であってただの骨ではないんだよ。
大切にお礼を言いながら、納めさせていただこうね。」
藤沢先生の法話の後、1ヶ月、考えた。
先生は何をおっしゃりたかったのだろうか……。
ふっと気がついた。
このお父さんは、子どもの前でお母さんを語る時、全部、敬語。
ただの並の夫婦ではなかったのだ。
お互いが阿弥陀様の世界をいただいた夫婦なのだ。
夫婦であっても、どちらかが先に死んでいかねばならない。
でもどちらが先に死んでも、共に行き先はお浄土。
そうお互い聞きあってきたからこそのお父さんの言葉。
「お前のお母さんは、仏さまの国に生まれていかれたのだよ……」
仏さまのご本願の中に生きたご夫婦。
男と女の関係ではあるが、
お互いを仏さまに成っていく身の上、
仏さまに成らせていただく身の上と、
常日頃から思い、敬いあっておられたに違いない。
【本当のよろこび】
社会に出て身につける肩書きは
足下から狙われていく肩書きです。
身につけた途端、人が狙っている。
そんな肩書きは私の幸せにはならない。
それは不安材料です。
本当の喜びは分ければ増えるものです。
「一緒にお浄土に生まれさせていただこう」
「共にお浄土の道を歩かせてもらおう」
「お互に仏法を聞く座(お寺)につかせてもらおう」
そして共々に味わえる事柄を増やしていくことが、
本当の喜びではないでしょうか。
そこを親鸞聖人は「御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)」と表現してくださいました。
この度は「歓喜会(かんぎえ)」の法要でした。
苦悩の人生、苦難の人生、悩みある人生ですが、
ご本願を聞き入れて、
喜びの人生へとかえていくということが
大きな我々浄土真宗のテーマです。
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん
(本願成就文(『一念多念証文』より)、注釈版677頁)
《第208回 松岡 洋之師 平成22(2010)年6月21日 (仏婦法座)》
【ブラジル開教物語】
ブラジルでの約五年の開教生活。
そこであらためてお念仏の有り難さを感じました。
それはお念仏の教えが日本と何も変わっていない事でした。
ブラジルは「日本と正反対の国」と言われます。
地球上の位置が反対。
車の運転席と車線が反対。
国旗が反対(朝を表す日の丸と、夜空の星を描いたブラジル国旗)。
ノコギリの使用方法が反対。
挙げ句の果てに、ホタルの光る場所が反対!
日本の文化は奥ゆかしいものです。茶道、相撲、盆踊り……。
しかしブラジルは、珈琲、サッカー、カーニバル……実に陽気です。
日本と違い貧富の差が非常に激しい国ブラジル。
犯罪大国ブラジル。
環境が違う、言葉が違う、文化はまるで違う。
それなのにお念仏の教えは全く同じ。
何故でしょう。
お念仏の教えは、
環境でも言葉でも文化でもなく、
人間の真実の姿、
真実の苦しみに真正面に応えるものだからです。
環境・言葉・文化が違えど変わることなくある教えこそ真実と言えるのではないでしょうか。
だからお念仏は変わらないのです。
ブラジルの日系移民は今、
2世、3世へとお念仏の教えを一人々々変えることなく大切に受け伝えています。
どのような時代にも首尾一貫し続けるもの、
それこそが本当の意味で私の依り所になるのです。
ブラジルに生きるお念仏は、そのことを如実に物語っています。
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
『前に生まれんものは後を導き、
後に生まれんひとは前を訪へ、
連続無窮にして願はくは休止せざらんと欲す。
無辺の生死界を尽さんがためのゆえなり。』
(『教行信証』 註釈版聖典p.474)
《第207回 内田 正祥師 平成22(2010)年5月28・29日》
【御用ある世界】
本山のある夜の法座にて。
その晩の聴聞者は6人。
その方達へ質問をした。
「“あの世”と聞くとどんな世界を思われますか?」
最初の方は「お浄土」と答えられた。
次の方は「無量光明土」。
次の方は「倶会一処(くえいっしょ)」。
お浄土、無量光明土、倶会一処……すべて同じである。
「もう少し易しい言い方で何かありませんか(たとえば冥土とか)?」
すると次の方は、少し考えられてから、
「いのちのふるさと」
「……それはもしかしてお浄土ですか?」
「そうです。」
次の方はもう答えを考えておられた。
「私を待っていてくださる世界」
とうとう全員答えが同じであった。
そこでこう尋ねた。
「『冥土』とか『天国』とか『草葉の陰』とか『お星様』とか『黄泉の国』とか、
世間にはいろんな事が言われていますよね。
それらをあの世と思ったことは無いのですか?」
すると最初におっしゃった方が、
「冥土、天国、草葉の陰……私はそのようなところにご用はございません。」
【私事として】
「人は死んだらどこへ行くのですか?」
仏教の教えは一般論ではない。
この私がどこへ行くのか?
どこへ行きたいのか?
私を目当てとして如来のご本願は発されていることを聞く。
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
願はくはこの功徳をもつて、平等に一切に施し、
同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん。
(観経疏、『浄土真宗聖典(七祖篇)』, 299頁)
《第206回 福間 義朝師 平成22(2010)年3月12-13日》
【最後の親孝行】
「孝行したい時分に親はなし」
私たちは親を亡くした際、お互い何某かの後悔の念にかられます。
「なぜもっと優しくしてあげられなかったのか」「なぜあんな酷いことを言ったのか」……。
平素は親をないがしろにしておきながら。
しかし今、たった一つだけ親孝行が残っています。
それは「聞法」です。
死を大切なご縁として法(お浄土の教え)を聞くのです。
先だった方はそれを一番喜んでくださっています。
お浄土は「倶会一処(一つのところで共に会う)」の世界です。
必ず会える世界、それがお浄土です。
同じ屋根の下に住んでもすれ違いがあるのが娑婆ではないでしょうか。
出会っているようで、本当は出会っていないのです。
相手の心は分かりません。
しかし浄土はお互い仏となって会うのです。
互いに拝みあうのです。
本当の意味で出会うことができるのがお浄土です。
手土産を持ってお浄土、真実のふるさとへ帰りましょう。
手土産とは何か?
お金?ごちそう?……私の事です。
日々の嬉しい時も、またどんなにつらい悲しい時があっても「南無阿弥陀仏」と歩んだ事です。
「あなたが先だっても、それを単なる悲しみでは終わらせませんでした。
それをご縁としてますます法を聞いてお念仏を依り所に精一杯生き抜きました。」
お浄土であの方と山ほど話すことがあるでしょうが、
先だった人が待っているのは、その一言です。
毎日がお念仏との生活。
今日の一日(ひとひ)を抜きに語れないのがご法義なのです。
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
「帰去来(いざいなん)、他郷には停まるべからず。
仏に従ひて本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず。」
(『教行信証』化身土文類、浄土真宗聖典411頁)
帰去来:さあ帰ろう。故郷に帰る決意を述べたものであるが、ここでは浄土に生まれたいという意をあらわす。
他郷:娑婆世界のこと。衆生にとって真実の故郷というべきは阿弥陀仏の浄土であるから、娑婆を他郷という。
本家・本国:阿弥陀仏の浄土を指す。
行願:自利利他の完成を願うことと、その実践修行をいう。
《第205回 溪 宏道師 平成22(2010)年1月27-29日》
【永遠のいのち】
お慈悲をいただきにくい時代です。
その原因の一つに、
現代ほど死を嫌う時代はないからでしょう。
誰だって死にたくはありません。
しかし「死にたくない」と「死を嫌って死を受け入れない」とは違います。
後者の場合、
たとへ200歳まで長生きしたとしても、
その人の人生は最後、虚しく終わっていくでしょう。
「あなたは“滅びのいのち”を終わっていくのですか?」(某哲学者)
死を向こうに追いやったら、結局、
滅びのいのちを終わっていくだけなのです。
“滅びのいのち”ではなく“永遠のいのち”を生きる道。
その道をお示しくださったお方を、
私たちは御開山様、親鸞様と仰ぐのです。
【宗教の目的】
「死んでいく私たちが死を見つめようとしないのは不真面目ではありませんか?」(K和上)
これを聞いてある方がこう反論されるかもしれません。
「我々はまだ死んでいないではないか!
ならば死の話よりも、今の話、
健康、お金、家族……そういう話が大事ではないか。」
勿論、健康も、お金も、家族だって大事な問題です。
それを否定するのではありません。
しかし、
これら(健康・お金・家族)が“宗教の目的”であるかのごとく説く宗教の何と多いことか!
「私どもの所へ入信したら、病気が治る、お金が入る、家族が仲良くなりますよ!」
これが嘘というのではないのです。
しかし仏教はこれを説かないのです。
特に浄土真宗は言わない。
何故か?
……これを目的にしていると、
やがて「これが目的ではなかった」と泣いて知らされる時が来るからです。
そして“滅びのいのち”を終わっていく時が必ず来るからです。
私たちの歩む浄土真宗の道、
それは死を向こうに追いやっていくのではなく、
死をしっかり見つめ、
死を超えていくことのできる道なのです。
(おわり)
※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)
『ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、
多生にも値(もうあ)ひがたく、
真実の浄信(じょうしん)、
億劫(おっこう)にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、
遠く宿縁(しゅくえん)を慶べ。
もしまたこのたび疑網(ぎもう)に覆蔽(ふへい)せられば、
かへつてまた曠劫(こうごう)を経歴(きょうりゃく)せん。
誠なるかな、
摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言、
超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう)、
聞思して遅慮することなかれ。』
(『教行信証』総序 註釈版聖典 pp. 131)
(意味…ああ、この大いなる本願は、
いくたび生を重ねてもあえるものではなく、
まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。
思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、
遠く過去からの因縁をよろこべ。
もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、
もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。
如来の本願の何とまことであることか。
摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。
世に超えてたぐいまれな正しい法である。
この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。)
(『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』、p. 5)
《第204回 紫藤 常昭師 平成21(2009)年11月16-17日》
『諸仏如来はこれ法界身なり。
一切衆生の心想中に入りたまふ。
かるがゆゑになんぢら、心に仏を想ふときは、
この心これすなはち三十二相・八十随形好なり。
この心作仏す、この心これ仏なり。』
(観無量寿経、参照 [註釈版聖典p.100])
【苦悩を除く法】
「私、最近、癌になって良かったかなと思うのです」
癌がきっかけでお寺参りを始めたお方の言葉です。
すい臓癌になって良いことはありません。
できたらならならない方が良いでしょう。
しかし癌になった時から、
その方は過去の栄光や実績を振り返るのではなくて、
現在、そして未来を見るようになったです。
お念仏をしたからといって、
苦しみが無くなるということはありません。
悲しみが消えるということもありません。
しかしその苦悩や悲しみを縁として「開き行く世界」があるならば、
苦悩や悲しみは決してそのまま終わっていかないのです。
どのような過去の悲しいものにも手を合わせていく世界がある。
お釈迦さまは『観無量寿経』でそのことをお話されたのでした。
《第203回 深川 倫雄師 平成21(2009)年9月26−27日》
『大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海
なり。ゆゑに大行と名づく。』
(教行信証、註釈版聖典p.141)
【名の声】
仏さまはこうお誓いです。
「われ仏道を成るに至りて、“名声”十方に超えん」(重誓偈、注釈版聖典p.24)
「名声(めいせい)=評判」ではありません。
「名の声」です。
仏さまの名、それは“声”になるのです。
お念仏というのは、
私が「南無阿弥陀仏」という言葉(評判)を聞き知って、
称えるのではありません。
“私”の口から「南無阿弥陀仏」と“声”になりなさるのが仏さまです。
もっと詳しく言えば、
私に届けられた仏さまの功徳全体が、
「南無阿弥陀仏(ナンマンダブ)」という仏の名前として声になるのです。
「南無阿弥陀仏」の本になる仏さまの功徳は、既に全部、私に届いています。
その功徳は私には分かりません。
だから仏さまの方が、
分かるように聞こえるように称えられる声になると、
長いのでは大変だから短く「ナマンダブ」という声になると、
そうお誓いになったのです。
もう一度言いますが、
「ナマンダブ」は“私”の口から出る時、
初めて“声”になります。
だから私の口から仏さまになる前に
「ナマンダブ」が他のどこかに出来ておるのではないのです。
仏さまのたくさん功徳が私に届いてそれが一つになって「ナマンダブ」と出てくるのです。
(追記)
(和上)「私は今、86か7ですが、
毎朝おつとめをしながら楽しいです。
若い頃は朝のおつとめが面倒で(笑)。
口では言われんですがそうでした。
この歳になったら他に用事がないですから。
皆さんもあんまり用事がないでしょ?
どうかすると若い者が「死ね」と言わんばかりのことを言う。
死なれるか!
この老境こそ味わい深いものなのだ。
うんとうんと人生の味、お念仏の味がわき出てくるものなのだ。
これからお互いもっともっと身体に気をつけて、
長生きをして、
長生きするだけでなくて、
その老境の中へ私の声となった「ナマンダブ」の味を楽しんでくれたら良いですね。
宗教というものはそういうものです。
理屈をいうものではありません。」
(初日、最後の言葉より)
《第202回 松林 行円師 平成21(2009)年8月27〜28日》
『如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情を捨てずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり』
(『正像末和讃』 註釈版聖典p.606)
浄土真宗は「お聴聞」(法話を聞く)につきます。
お聴聞……したらどうなるのでしょうか?
最初にして最大の問題です。
結論、お聴聞をすると、
だんだん阿弥陀さまのお心、お慈悲の心が見えてます。
しかし今日、この「慈悲」がピンときません。
慈悲とは何か?
善導大師(ぜんどうだいし)は「慈悲とは無背相(むはいそう)である」
とお示しくださいました。
「無背相」、すなわち「背無き姿」。
言い換えると「裏切りがない」ということです。
阿弥陀さまのお慈悲の心とは、
「決して裏切らない心」であります。
娑婆は裏切りの世界です。
都合が悪くなると人は簡単に離れ去っていきます。
そして頼みの“家族”“自分”さえも、私を裏切ります。
しかしこのお慈悲の心だけは違いました。
「たとえ周り全てがあなたに背を向けたとしても、私は立ち去らない。
そのために私は“南無阿弥陀仏”の声の仏となって、
あなたと共に呼吸をし、
命終わったと同時に必ずお浄土のへ連れて行く!」
阿弥陀さまのご本願、救済大計画でした。
お聴聞……それは裏切りのない世界、
真実の世界に気づかせてだく場所であります。
《第201回 宮崎幸枝先生(平成21年6月22日)》
「怖くてよぉ、怖くて仕方が無いんだよ」
「何がそんなに怖いの?」
「死だよ。死ぬのが恐いんだよ」
幸枝先生はこの言葉を聞き、
カルテに文字を書いていたペンを止め、
その方の膝にそっと手を乗せました。
「何をおっしゃるの。
阿弥陀さまはいつでもあなたを救いたい、救いたい、と思ってくださるから、
何も心配することは無いのよ。
私たちは気がつかないだけで、
阿弥陀さまの温かい胸に抱かれて暮らしているのだから」
それを聞いたその方は、思わぬ反応をしました。
わっ、と顔を両手で覆い、声を上げて泣き出したのです。
「そうなのか……そうなのか……阿弥陀さまが助けてくれるのか……良かった……」
どんなに地位や名声やお金があっても幸せでは無い人もいれば、
病床で苦しんでいても尚、幸せな人もいます。
それは「こころ」の問題であり、
どんなにお金を出して高価な薬を買っても、救われない人は救われない。
今、この瞬間に、その方のこころは「本当の救い」というものを得たのでしょう。
「阿弥陀さまありがとう、と思ったら、
いつでもどこでも『南無阿弥陀仏』と称(とな)えてね。
それだけでいいのよ」
そう言って先生が「南無阿弥陀仏」と書いたメモを渡すと、
その方は涙で濡れた手でその小さな紙を握り締め、
何度も御礼を言いながら帰ってゆきました。
後日、あの方は人が違ったかのような、
明るい雰囲気を纏い、笑顔と共に診察室にやってきました。
「先生、看護婦さん、オレはあれから嘘のように安心して暮らしているよ、
お念仏も称(とな)えているよ。ありがとう」
(『お浄土があってよかったね』より(抄出) pp. 204-206)
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