法話2007
目次
・十二月後半 弥陀の喚び声(上)
・十二月前半 センサー式のひかり
・十一月後半 サ行の秋(下)
・十一月前半 サ行の秋(上)
・十月後半 拝み虫
・十月前半 わたしとお釈迦さまと阿弥陀さま
・九月後半 蓮の実
・九月前半 如来の実践
内容
《弥陀の喚び声(上) (十二月後半)》
【第一問】
突然ですが、
浄土真宗を開かれた方の名をご存じですか?
……そうです、「親鸞(しんらん)」さまですね。
敬意をこめて「親鸞聖人(しんらんしょうにん)」、また「(お)聖人」とお呼びします。
【新しいヒーロー】
さて今月の初め、
従姉妹がもうすぐ一歳になる息子への子供服をプレゼントしてくださいました。
段ボールをあけて中身を取り出してみると、
とても温かそうな可愛らしいジャージでした。
ところがそのジャージには、
胸のあたりに次のような文字がプリントされているではないですか。
「しんらんまん」
親鸞マン!?
とても驚きました。
いつのまにそんな新しいヒーローが生まれたのだろう、
すごいジャージが世の中には売られてあるなと思いました。
あの親鸞聖人がマントをつけて空を飛ぶ……頭の中でそんなキャラクターを思い浮かべてしまいました。
でもジャージを裏返してわかりました。
ジャージの背中の部分には、
「てん」
という文字が刺繍されていたのでした。
そうです。
「てん + しんらんまん」→「てんしんらんまん」
だったのです。
最初の「てん」の二文字は、わざと裏側に刺繍してあったのでした。
天真爛漫(てんしんらんまん)。
無邪気で明るく元気に育って欲しいという親の願いを代弁したジャージでした。
「親鸞マン」というキャラクターも捨てがたいですが。
【第二問】
ところでふたたび質問です。
浄土真宗のご本尊(ほんぞん)、
つまり依りどころとする仏さまの名前、
ご存じでしょうか?
……阿弥陀仏?
ファイナルアンサー?
…………………………そうです、「阿弥陀仏(あみだぶつ)」さまです。
なお「阿弥陀(あみだ)」は「無量の(光・いのち)」という意味です。
ですから阿弥陀さまは無量のいのち、限りない光をそなえた仏さまです。
それで「無量寿仏」、「無碍光仏(むげこうぶつ)」等といった別の呼び名があります。
【六字名号(ろくじみょうごう)】
そして何といっても大事な呼び名があります。
「南無阿弥陀仏」です。
この六文字のお名前は非常に大切な意味のあるお名前です。
親鸞聖人の書かれた『唯信証文意』(ゆいしんしょうもんい)には次のようにあります。
「如来」と申すは無碍光如来なり。「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。
(註釈版聖典、p. 700)
あのお念仏もうす時に称える「南無阿弥陀仏」こそ、
阿弥陀さまの尊い御名(みな)なのです。
それを「名号(みょうごう)」と言います。
六文字なので「六字名号(ろくじみょうごう)」(註)とも言います。
また「お六字さま」ともお呼びします。
そういうわけでお願いがあります。
今後、
「浄土真宗のご本尊は?」
と尋ねられたら、
「南無阿弥陀仏」
と応えてください。
阿弥陀仏、でも勿論間違いではありません。
でも、阿弥陀仏ではなく南無阿弥陀仏です。
しんらんまん、ではなく天真爛漫であるように。
何故「南無」がつくのか。
それには大切な意味があります。
それは次回、後半でお話します。
(つづく)
【註】
他に阿弥陀さまの「名号」には、
「南無不可思議光仏」(なもふかしぎこうぶつ)の八字名号、
「南無不可思議光如来」(なもふかしぎこうにょらい)の九字名号、
さらに「帰命尽十方無碍光如来」(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)の十字名号があります。
《センサー式のひかり (十二月前半)》
【センサー式ライト】
みなさんは「センサー」ってご存じでしょうか?
センサーとは、言ってみれば感知システムのようなものでしょうか。
それを備えることで機械は外の状態のいろいろなことを感知します。
温度センサー、赤外線センサー、などがあります。
先日、出先でお手洗いをお借りしました。
トイレに入ると、それまで薄暗かった部屋がパッと明るくなるではありませんか。
天井にあったライトにセンサーがついていて、
私が部屋に入った「動き」を感知し、
即座に点灯したのでした。
非常に感心しました。
ところが困ったことがおきました。
しばらくトイレにいてジーッとしていると、
スーッと部屋が暗くなり出したのです。
あれっと思い、身体を起すと、
またパッと明るくなりました。
けれども私が身体を動かさないと、
またすぐにスーッと暗くなり出すのです。
つまり部屋に動きがないと、
そこには人がいないものとして天井の「動きセンサー」が作動して消灯してしまうのです。
私が動かないと照らしてくれないライト。
経済的ではありますが、
一抹のせつなさを感じました。
【弥陀の光明】
阿弥陀さまの救いの光は、このトイレのセンサー式ライトのような、
こちらが動いたら照らすというものではありません。
すなわち、
私たち凡夫が手を合わせたり、
お念仏したり、
「仏たすけたまえ」と願ったりしたら、
それを察知して光を照らしてくださる…
そうではないのです。
仏さまの方が常に先手であります。
生まれた瞬間から自分自身の都合の良いように生きてきた私です。
いえ、生まれた瞬間どころではありません。
生まれるはるか前、
始まりがどれほど前だったかわからないほど、
とてつもない昔より、
結局、自分が良ければそれで構わない、
そのような考えから抜け出すことのできない私でした。
それを煩悩といいます。
そのような凡夫の私の性分を、
とことんまで知り尽くされたのが阿弥陀さま。
こちらが何をしようとも、それでは間に合わないことをご存じでした。
だんだん薄暗くなっていくトイレの中です。
でも阿弥陀さまは常に私を案じ、
「そのままでいいんだよ、あなたと共にいる仏はここにいるよ」のメッセージをたずさえて、
今まさに、お慈悲の光となっての降り注いでいてくださいます。
そのことに気づかせていただいた、出先のトイレ事件でした。
《サ行の秋(下) (十一月後半)》
【関白宣言】
※今月前半からのつづきです
結婚の宣言といえば、思い出すのがさだまさしさんの「関白宣言」。
お前を嫁にもらう前に、
行っておきたい事がある。……
タイトル通り、亭主関白の宣言歌です。
男性のか弱さ・もろさといった正直な想いが随所にあらわれています。
素直に共感できる部分が多い歌です。
(※全文歌詞が右のアドレスに掲載 http://www.fukuchan.ac/music/j-folk3/kanpaku.html)
【出会いは別れの始まり】
特に私自身考えさせられたのが3番の歌詞。
子供が育って年をとったら、
俺より先に死んではいけない。……
夫婦になったその日から二人は苦楽を共にして生きます。
けれど二人の思い出が日々増えていくと同時に、別れも一日また一日と近づいてきます。
いつの日か、
どちらかが相手の"死”にであっていかなければなりません。
夫婦の生活とは、
結婚に始まり葬儀に終わります。
そのことを受け入れ、
お互い決心するのが結婚式だと思います。
【別れは出会いの始まり】
−人生は出会いと別れの繰り返し−
仏さまの話を聞くと、
出会いは「別れの始まり」と言うことを知らされます。
けれども同時に、
別れもまた「出会いの始まり」であることに気づかせていただきます。
阿弥陀という名の仏さまは菩薩の時に誓いを建てられました。
「あなたがどのような人間であろうとも、必ず私のさとりの世界に生まれさせる。」
言い換えると、
「あなたと私とがさとりの世界で出会うことがないならば、自分は阿弥陀仏には成らない。」
と決意されたのでした。
そのような阿弥陀さまの誓い(ご本願)を聞き、
阿弥陀さまがおっしゃる通りにお念仏申す日暮らしにつとめます。
念仏する者は、
人生必然の"別れ”に目をそむけることなく、
どのようなつらい悲しみも"そのまま”受け入れていくことができます。
それはどのような別れや悲しみにも
その向こうに阿弥陀さまとの出会い、真実の親との出会いがあるからです。
【信心の秋】
あらためまして、
サ行の秋です(詳しくは今月前半の法話をご覧ください)。
参拝の秋、説教の秋、正座の秋…お彼岸を始め秋こそお寺と触れ合ってもらいたいものです。
お寺と触れあい、
仏さまと触れ合う。
秋こそ「他力のご信心」(如来さまからめぐまれた真実の信心)を得るに良い季節だと思います。
(完)
※余談
「関白宣言」を作ったさだまさしさんは、後に「関白失脚」という曲を発表されました。非常におもしろい歌です。
http://moto33osaka.web.infoseek.co.jp/kashicard/kanpakusikyaku.htm
《サ行の秋(上) (十一月前半)》
【説教の秋】
夏の暑さが止み過ごしやすい季節となりました。
秋真っ最中です。
その「秋」についておもしろい詩をみつけました。
葉山真理 「サ行の秋」
秋刀魚・新米・さつま芋
食欲の秋に、秋分の日。
生姜・鯖・里芋。
今年もサ行の秋が実りました。
私の好きな新蕎麦([し]んそば)も秋です。
また「[ス]ポーツ」の秋です。
読書ならぬ小説([し]ょうせつ)の秋。
さらに「収穫([し]ゅうかく)」の秋。
ひょっとすると「失恋の秋」、開き直って「仕事の秋」という人もいるかもしれません。
そして参拝の秋です。
仏さまの前に座ってじっくり心を静めてみてはいかがでしょう。
また説教の秋です。
暑くもなく、寒くもなく、眠くもないこの季節、
仏さまのお話を聞くには絶好の日和です。
どうぞお寺にお参りしてお聴聞ください。
ただし「正座の秋」でもあります。
多少足は痛いですが我慢してください。
(これは冗談です。椅子を用意してお待ちしています。)
【新婚の秋】
ところで秋はまた結婚式が多い季節です。
先々月は弟が結婚しました。
また先月は山口の後輩が結婚しました。
招待はされませんでしたが。
また先週、
京都で開かれた先輩の結婚披露宴に招待を受けました。
法事のため一時間遅れましたが、
どうにか間に合い新しいご夫婦の門出をお祝いすることができました。
この結婚披露宴の締めくくりは、
大抵、新郎の謝辞です。
新郎が緊張しながら招待客やこれまでお世話になった多くの人たちへ謝辞を述べ、
そして結婚への決意を宣言します。
ここに新しい家族が誕生します。
型どおりではない新郎自身の誠意と誓意のこもった謝辞と宣言です。
これを聞く度に「ああ、来て良かった」と思います。
(十一月後半につづく)
《拝み虫 (十月後半)》
お朝事(朝、おつとめをすること)の後、本堂の縁を掃除します。
掃けども掃けども、次の日には埃だらけ。
けれども毎日繰り返す単調な行為ですが、人生の喜びにであうことがあります。
九月の終わり頃でした。
いつものように朝掃除をしていると、
中央階段の手すりの上にカマキリがいるのを見つけました。
大きな身体とお腹をしたメスのカマキリでした。
私が側をほうきではいていても一向にお構いなし。
本堂の方を向いてじっとしていました。
カマキリは前足が鎌の形をしています。
その前足を持ち上げた姿は、
仏さまに手を合わせているようでした。
「よく来たね!」
思わず声をかけました。
カマキリは肉食です。
夏の間、
生きるために多くの昆虫を捕まえ食べます。
ところが他の昆虫だけでなく、
同種の仲間までも殺めてしまう場合があります。
共食い。
その旺盛な食欲のため、
カマキリは交尾の時に身体の大きなメスがオスを喰い殺してしまう事があるのだそうです。
目の前で合掌するカマキリ。
理由はあれども自分と同じカマキリを喰い殺し、
初めて自分の悪業について考え悩んだのかもしれません。
カマキリは思いました。
「そういえばあの建物には真夏にたくさんの人間が集まって阿弥陀さまとやらの話を聞いていた。
私も行ってみようかしら。」
昼間子供たちに見つかると危ないから、朝早くお参りしに来たのでした。
阿弥陀さまはあらゆる者を必ず救うと願われました。
それを「ご本願」といいます。
あらゆる者とは、目の前のカマキリも同様(※註)。
このカマキリにも阿弥陀さまの救いの光は届いています。
見えぬとも
そよぐ草木に
風を知る
私たちは風そのものを見ることはできません。
けれども揺れている植物を見て、
私たちは風を知ります。
カマキリの姿を通して、
いつでもどこでも私に届いてくださるみ仏のあたたかな風を知らせていただいた朝掃除でした。
※註
『大阿弥陀経』(『無量寿経』の異訳)には仏さまの願いを次のようにお示しくださっています。
「第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・■飛(けんぴ)・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と。{以上}(註釈版聖典、p. 143)
(自由訳)「第4願。もし私が仏になったなら、私の名が、あらゆる世界に到り届きますように。神や人だけでなく、“飛ぶ虫・はう虫”も、私の名を聞いて喜びにあふれますように。そしてみなわたしの国に生まれますように。この願いが完成して初めて私は仏になりましょう。もし完成しなければ、決して私は仏になりません。」
《わたしとお釈迦さまと阿弥陀さま (十月前半)》
専徳寺では年始めに[私の仏事暦]なる一枚の紙をお渡しします。
そこに自分の有縁の方のご命日を記入し、お仏壇前の経机の上に置いていただきます。
毎朝お仏壇の前に座った際、
「ああ、今日は○○さんのご命日だった」と、その人を思慕させていただきます。
さてその「仏事暦」の上に今年の仏暦が記してあります。
今年は仏暦2550年の節目の年です。
つまりお釈迦さまがお亡くなりになって2550年経過したということです。
(※ お釈迦さまの亡くなられた年には諸説あります)
タイ等、東南アジアの仏教信仰の地域では盛大に大遠忌がいとなまれているそうです。
私にとってお釈迦さまとはどのような仏さまなのでしょう。
親鸞聖人が作られた「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)」で始まる「お正信偈」には、
以下の二句があります。
如来所以興出世(如来、世に興出したまうゆえんは、)
唯説弥陀本願海(ただ弥陀の本願海を説かんとなり。)
「如来」というのはお釈迦さまのことです。
お釈迦さまがこの世にお出ましくださったからこそ、
私たちは阿弥陀さまのみ教えに出遇うことができました。
阿弥陀さまのみ教え……それは願いの教えです。
阿弥陀さまは「どのようなものであっても平等なるさとりの世界へ生まれさせたい」という願い(本願)を建てられました。
そしてその願いを完成させ、阿弥陀という名の仏さまになられたのでした。
その完成された願いの教えはまるで海のように深くて広いので「本願海」とも言われます。
私たちはお釈迦さまが説いてくださった通り、
阿弥陀さまの願いのみ教えをよりどころとし、
お仏壇の中へ阿弥陀さまをご安置し、
日々きちんとお給仕させていただきます。
《蓮の実 (九月後半)》
【ハスとハチス】
「一蓮托生」という言葉があります。
一般には「運命や行動を共にすること」を意味する語として使われます。
しかしこの言葉はお経から生まれた言葉です。
元々の意味は「極楽浄土の同じ蓮の花の上に生まれること」です。
寂しいことですが私はいつか死んで往かねばなりません。
けれども命終えた向こうに間違いない仏さまの世界(極楽浄土。お浄土)があります。
それは縁ある方と共にまた遇うことのできる世界です。
私もあなたも共にあの美しい白蓮華の中に生まれていきます。
さてその蓮の花ですが、
その花の中心には蓮の実があります。
花床(かしょう)・花托(かたく)と呼ばれる部分です。
ちょうど蓮根を半分に切ったような形で、
たくさんの穴があいています。
その穴の中に、
蓮の実が一つずつ入っています。
この花床部分、蜂の巣にとてもよく似ています。
そのことから蓮はかつて「ハチス(蜂巣)」と呼ばれていました。
それが縮まって今では「ハス」と呼ばれます。
ハスという読みの由来は花の中心にある花床部分(ハチス)にあるのです。
蓮の花の中心にたたずむハチス(蜂巣)。
それは浄土の蓮華の中に生まれゆく私の姿を示しているようです。
【心の毒針】
蜂と聞いて思うことは何でしょうか。
すぐに浮かぶのがおしり部分の毒針ではないでしょうか。
蜂は生まれながらに毒針があります。
死ぬまでその針を手放すことはありません。
その針の毒はいくら相手を刺しても消えることはありません。
逆にたとえ一度も人や敵を刺さなくても、その毒が衰えるということはありません。
蜂は一生涯毒針を持ち続けて生きています。
同様に私の心にある煩悩(ぼんのう)という毒も決して衰えることはありません。
物を貪り人を嫉み差別する煩悩の心はいくらでも湧き起こってきます。
煩悩まみれの私がどれだけ善行を積んでも、
それは佛になる道を切り開くことにはなりません。
仏さまの眼(まなこ)から見た私の善い行為は、
真実には程遠い毒混じりの行為です。
そのような私を先刻ご承知だからこそ、
阿弥陀さまは光を照らし南無阿弥陀仏となって私に届いてくださいます。
煩悩を一生涯拭い去ることのない私を、
煩悩ごと抱きかかえてくださいます。
そして私は煩悩を持ったまま命終えると同時に仏さまの世界(お浄土)へ生まれ佛とならせていただきます。
【毒針を持ったまま】
仏さまの光に照らされる時、
私が生まれながらにして毒針を持った生き物であることに気づかされます。
蜂巣に眠る蜂の子……まるで現実の私の姿を映し出しているようです。
今時分、
蓮田にはこの蜂巣似の花床が点在しています。
その光景は一生涯煩悩の毒針を持ち続ける私がそのまま生まれさせていただける、
尊い阿弥陀さまのお浄土の世界を示してくれているようです。
《如来の実践 (九月前半)》
【しっているを、しているへ】
今夏も猛暑でした。
年々暑くなるように感じます。
お盆のお参り中、何度も会話に登場したのは地球温暖化という言葉でした。
気温が上昇し、それにともない海水位の上昇や気候が変化しています。
自然環境のバランスが乱れています。
大変重要な問題です。
そんな中、最近、AC(公共広告機構)の「しっているを、しているへ」というCMを知りました。
レジ袋を使わない。
しっているけど、していない。
電気をこまめに消す。
しっているけど、していない。
風呂の残り湯で洗濯する。
しっているけど、していない。
牛乳パックのリサイクル
しっているけど……
環境問題についてあらためて問い直す良いCMだと思います。
知ってはいるけれどしていない私……。
環境破壊の現状に懸念を抱き、個人で始められる事を知りながら、「忙しい(=面倒くさい)」として実践できていない私……。
「しっているを、しているへ」、「っ」の除去のいかに大切なことか。
目の前の身近な目標を少しでもやり遂げていきたいものです。
【兆載永劫(ちょうさいようごう)の実践】
この環境問題と同じく大切なのが私のいのちの問題です。
自分は何故生まれ、
今生きていて、
そして命終わっていかねばならないのか。
当たり前のようでもっとも重要な問題です。
そんな私のいのちの問題を真正面から受け止めるもの、
それは如来さまでありお念仏です。
お念仏とは「ナモアミダブツ(南無阿弥陀仏)」のことです。
それはまた阿弥陀仏という如来さまのお名前(名号)でもあります。
このお名前には、阿弥陀さまの智慧と慈悲、あらゆる衆生を絶対に救うというお徳が満ちあふれています。
何故、単なる名前に徳があるのか。
経典『仏説無量寿経』にはおおよそ次のように記されています。
阿弥陀さまは仏になる前、
すなわち法蔵菩薩という名の菩薩さまであった時、
210億もの仏国土を観察なさいました。
そして五劫(※1)という非常に長い時間をかけ思案に思案を重ね、
ついにあらゆる衆生を「名で救う」という願い(本願)を発されました。
さらに願いを願いのままにすることなく、
直後、兆載永劫(ちょうさいようごう)という果てしなく長い時間修行しその願いを完成なさいました。
このようにしてついに阿弥陀さまは悟りをひらかれたのでした。
このようなことから阿弥陀さまの悟りのお徳は、
悉く南無阿弥陀仏というお名前の中に具わっているのです。
しっているを、してくださったのが如来さまです。
命終わるまで煩悩に迷いとらわれている私の事を知り抜き、
そのような者を救わずにはおれないとして、
五劫もの間思案なされ、
兆載永劫もの間実践されたのでした。
普段何気なく私の口から出るお念仏ですが、
そこには阿弥陀さまの言葉では言い尽くせない御苦労の結晶がみえます。
そのことを念仏を通して聞かせていただきながら一日々々力強く歩んでまいります。
※1:「劫」とは、極めて長い時間の単位です。その説明として、たとえば縦横高さが7kmの鉄城があったとして、その中に芥子を充満し、100年に一度、1粒の芥子を持ち去って、すべての芥子がなくなったとしてもまだ劫は終わっていないといわれます。
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