山口県は岩国にある浄土真宗のWebサイト

「法座の言葉」について

専徳寺では昭和55年より、
法座が終わるたびに参詣者に葉書を送って来ました。
葉書には参詣へのお礼に続いて、講師の法話の肝要部分、
またそれを承けての住職の法語等を書いてきました。

 

当ページではこれらの言葉を紹介いたします。

 

過去の法話

第222回 海谷則之師(2012/6/18・仏婦法座)

【覚醒の宗教】

 

世間ではよく死ぬことを「お迎えがくる」という。
誰がくるのか?
死に神か。
閻魔の使いか。

 

こんな言葉があるそうだ。

 

米寿(88歳)でお迎えの来た時は もう少しお米を食べてからと云え。
白寿(99歳)でお迎えの来た時は まだまだやりたい事があると云え。
茶寿(108歳)でお迎えの来た時は まだまだお茶がのみ足らんと云え。
          (『長寿の心得』より)

 

確かに人間だれしも死にたくはない。
元気で長生きはしたい。
その応援歌であるこの「心得」は、一見、聞き心地がよい。

 

しかしそうやって死から一生目をそむけることが果たして正しいのか。
仏教は“覚醒”、“目覚め”の宗教である。
健康な身体の今こそ、死をみつめていくのが仏教であり、
死を実際にみつめていけるのが浄土真宗である。

 

病に倒れて、いよいよベッドで仏書・宗教書をひらく………気にはならない。
癌になって身をもってしった事実である。

 

【常来迎】

 

浄土真宗は親鸞聖人のひらかれた、
阿弥陀様という如来の本願の教えである。

 

阿弥陀様はあらゆる者を救うために本願をたて、
お浄土をこしらえ、
念仏往生の道をあらわされた仏様である。

 

そして、さらに親鸞聖人は、
その阿弥陀様を、
「常来迎」の仏様といただかれた。
阿弥陀様は、
臨終になって来迎(迎えに来る、おむかえ)されるのではない。
常に来迎しつづけているのである。

 

如来は私を“糸のきれた凧”、すなわち、
無常の風の中を平気でさまよう私と見抜かれた。

 

人生にある3つの坂。
上り坂、下り坂、そして“まさか”。
“まさか”この私が最愛の人と別れようとは。
“まさか”この私が癌になろうとは。
夢にも思っていない。
しかしそれが現実。
……“まさか”この私がもういのち終わろうとは。
そのことを承知され、
そんな私をほおってはおけないと、
如来は名号(念仏)となって常に私によりそっておられる。

 

親鸞聖人はこう示される。

 

@来迎の「来」は「きたらしむ」。
  かならずお浄土へ生まれさせる仏様である。

 

 Aまた来迎の「来」は「かえる」。
  真実の世界へ帰り戻し、
  阿弥陀様同様、
  この上ない慈悲の活動をはじめる存在にする仏様である。

 

 B来迎の「迎」は「むかへたまふ」。
  他力の仏様である。
  いつ何があっても迷いの世界にはおとさない仏様である。

 

 Cまた来迎の「迎」は「まつ」。
  これは如来のはたらき(他力)に疑いをさしはさまず聞く私の心持ち。
  お浄土参りを楽しみに待つ。

 

 

痛がりで未練がましい私である。
いのち終わる最後まで「死にたくない」と思い続けるに違いない。
だが今、如来の本願・他力という真実のみ教えを聞く。
今生の最後は、私が思うような、空虚で悲観的な死ではない。
迷いのない真実の世界、お浄土に生まれ、
慈悲行を始める第一歩なのである。

 

浄土真宗の教えにであった時、
いま「おむかえ」があることをいただき、
そのことを喜んでいける世界に入る。

 

(おわり)

 

※讃題(上の法話は下記の親鸞聖人のお言葉を味わわれたものです)

 

弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり
(『正像末和讃』)


 
境内案内 内陣 歴史 ◆納骨堂・永代供養墓◆ 地図